身はいかに
なるともいくさ とどめけり
ただたふれゆく
民をおもひて
(昭和二十年終戦)
バブル経済がはじけた後、平成10年頃の日本は本当に厳しい状況でした。
日本経済は瀕死の状態でした。
急激な変化を望まない日本人ですが、さすがにその当時の日本は緩やかな変化を待てる状態ではなかったのです。
副作用を覚悟で「小泉改革」というニトログリセリンが必要だったのです。
財政面や経済面だけを考えると、もしも「小泉改革」がなければ、その後の日本は立ち行かない状態になっていたことが予想されます。
小泉政権下での功績の一部です。
●不可能と言われた不良債権を処理
●失業率大幅回復
●税収増
●株価が7,000円台から15,000円台に(国際的な信用回復)
●高齢国会議員の引退勧告(定年制導入)
●派閥主導の閣僚人事を廃止
●北朝鮮拉致被害者の一部帰国
一方で、評価し難い政策もありました。
●制度設計が甘かった三位一体改革(税制改革)
●産業によっては過度で早急な規制緩和
●女系天皇の容認
一部の地域や産業は強い薬の副作用と、急激な変化による適応障害に悩ませられることになります。それでも「聖域なき構造改革」は妥協を許しませんでした。
一方で、小泉総理は世界の先進国各国からその政治手腕を高く評価されました。
その証拠に、サミット(平成16年)での写真撮影では、堂々と中央に位置しています。中曽根総理以来のことでした。
<つづく>
戦後史で小泉政権を振り返ると、
●最高内閣支持率(2001年。各種調査で80%以上)
●最高与党議席率(2005年。自公の衆議院議席率68.1%)
●第3位の長期政権(2006年。佐藤栄作、吉田茂につぐ5年5ヶ月)
ところが、政権発足直後からポピュリストと言われ、その政治手法は「ポピュリズム=大衆迎合政治」と叩かれ、ネガティブキャンペーンの対象となります。
本当のポピュリストは、「『不利益分配』社会」(高瀬淳一著2006年)によれば、
「庶民派を気取り、政治や高級官僚をひたすら悪人呼ばわりして見せる。あるいは、無謀な利益供与を有権者に示して、その歓心を買おうとする。つまり、衆目のなかで横にいる高級官僚を罵倒する大臣や、高速道路無料券を高々と掲げる」
そんな政治家とのこと。その通りだと思います。
小泉純一郎氏は、有権者にとっては利益の少ない「痛みをともなう改革」「米百俵の精神」を掲げて総理総裁を勝ち取り、世論調査で優先すべき課題とは思われてなかった「郵政民営化」を掲げて平成17年の衆議院総選挙で大勝を果たしました。
また、バラマキ政策を取らず既得権益温存勢力の排除に努めました。
就任以前は知りませんが、総理就任後は毎年必ず靖国神社に参拝し、一部の東アジア諸国に媚びることもありませんでした。
小泉政権はポピュリストによるポピュリズムではなさそうです。
<つづく>
総理大臣が替わりすぎます。
平成18年の福田康夫政権以降、「3年間で3人」。
平成21年に民主党政権になって、「1年間で2人」。
9月以降にまた替わる可能性も・・・。
少子高齢化により1年に1兆円増え続ける社会保障費。
一方で、財政赤字の解消に向けた財政健全化。
景気対策もやらなければならない。
多少の無駄を削減したところで焼石に水。
どの政党のどの首相が政権を担っても状況が劇的に変わることはない。
有権者の皆様もようやく気が付いたのではないでしょうか。
決してやってはいけないこと。
ウケのよいバラマキ政策を掲げて政権を握ること。
バラマキを実行すれば財政をさらに悪化させることになり、あきらめれば国民を欺くことになる。
「進むも地獄、引くも地獄」
今の政権です。
平成になっての長期政権は小泉純一郎内閣だけです。
ところが、多くの政治評論家やマスコミは小泉政権を「小泉劇場」と切り捨て、小泉政治にポピュリズムのレッテルを貼って、「格差を生んだ悪政」として総括してしまいました。自民党内部でもそうかもしれません。
しかし、本当にそうだったのでしょうか?
少しだけ検証したいと思います。
<つづく>
「賢者は歴史に学ぶ」といいます。
歴史を振り返ってみると、聖徳太子が活躍した時代(6世紀後半から7世紀初頭)が、日本の置かれた現状と酷似していることに気付きます。
日本は、天皇家の国家統一がまだ不安定で、崇峻天皇が暗殺されて女帝の推古天皇が即位した際に聖徳太子が摂政に就任した頃です。
当時、東アジアは隋王朝が中国全土を統一し周辺諸国に強い影響力を持ち、朝鮮半島では高句麗、新羅、百済など諸国間で権力争いが続いていました。
現在、大陸では中国が力をつけて覇権国となり、朝鮮半島では北朝鮮と韓国が争っています。大陸も朝鮮半島も日本列島とその海域を虎視眈々と狙い、日本に対して様々な形で圧力をかけてきます。当時の状況と似ていますね。
聖徳太子は、日本を独立国家として隋王朝はじめ世界各国に認めさせて、正常な外交関係を樹立したいと思いました。それには、まず混迷する大和国家を完全に統一しなければならないと考えました。
そのために、「冠位十二階」(603年)と「十七条憲法」(604年)を制定します。その過程には激しい政治闘争がありましたが、大和国が日本国へ大きな飛躍を遂げることができたと記されています。
遣隋使・小野妹子に持たせた国書に「日出処天子至書日没処天子無恙云々」と書いて隋の煬帝と堂々と渡り合います。当時まだ小国の日本は「日出」ずる国であり、煬帝と同じ階位の「天子」がいるということを宣言しました。
これからの日本は世界各国と堂々と渡り合える体制を構築しなければなりません。内政でくだらない権力闘争をしている場合ではないでしょう。
今こそ自主憲法を制定し真の独立国家としての理念を確立すべきだと考えます。 「国民が望んでいないから」そんな理由では永久に先送りになります。自主憲法の制定こそ政治主導で行うべきです。聖徳太子に学び、新しい憲法を旗印に日本を再構築しましょう。
日本の存在自体が無くなる前に。
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